グリム童話

【昔話が怖い理由】残酷と批判されたグリム兄弟の意外な反論

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昔話には、どうして「残酷」なシーンが多いのでしょう?

グリム兄弟の文章の中に、この疑問に答えていると受け取れるところがあったのでご紹介します。

昔話は、なぜ怖いのか?」の意味も、お答えしています。

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グリム童話(初版)出版後の反響

グリム兄弟は自分たちの童話を1812年12月に第一巻、1815年3月に第二巻、時期を分けて出版しました。あわせて初版ですが、世に出したあと、グリム兄弟は批判を受けることになります。

理由は諸説ありますが、

  • 学識を誇示する内容
  • 挿絵がない
  • 残酷な内容

こんな感じですね。

3つとも、子供の本にふさわしくないという点で共通していますね。

①:学識を誇示する内容

序文と付録があって、それがむずかしく書いてありますので、子供に読ませる本には邪魔だという批判です。

「グリム童話」の出版を後押ししたアヒム・フォン・アルニムも、グリム兄弟に向けた手紙の中で初版の感想を言っています。アルニムも童話集『少年の魔法の角笛』などを手掛けたドイツロマン主義最盛期の代表的な人物です。

アヒム・フォン・アルニム

アルニム
「(前略)私がこの本の全体の構成を以前に知っていれば、ひとつだけ忠告したいことがありました。それは、序文と付録の部分は、別なところにまとめたほうがよかったのです」

小澤俊夫(1985)『素顔の白雪姫』光村図書.
「付録」は「注」になっていて、類話の情報や話の由来などが書かれてありました。これも不必要だと批判されます。

②:挿絵がない

挿絵についても、アルニムは忠告しています。

アルニム
「(前略)あなたの弟の銅版画を何枚か付けるべきでした。銅版画がなくて、お話の周りにある学識がほんとうの子どもの本の愛好者たちから、この本を隔離してしまうのではないか。一般に広がることへの邪魔になるのではなかろうかと思います」

同上、p.80

グリム兄弟は、全員で9人、幼くして亡くなった人を除けば6人兄弟です(男:5人、女:1人)。その末弟ルートヴィヒ・エーミール・グリムは版画家でしたので、グリム童話の中の挿絵を何枚か担当しています。画家でも一定の評価を得ていて、グリム兄弟の七光りでもないようです(同じグリム兄弟ではありますが……)。

ルートヴィヒ・グリムの自画像

③:残酷な内容

「実の母親が、実の子供を殺害するなんて残酷じゃない?」

「こんなの子供に読み聞かせができない!」

という読者の声があったようですね。

そもそも、グリム童話の正式名称が、

子供と家庭のためのメルヘン』(独: Kinder- und Hausmärchen)

ですから、反感を買いそうなタイトルですよね。自らハードル上げてますよね。

「残酷」と酷評されたグリム兄弟のリアクション

そんな初版で批判を受けたグリム兄弟が、『子供と家庭のためのメルヘン』第2版の序文で、その思いを語っています。

グリム兄弟の生の声です。

文章の内容は、少しまどろっこしく、分かりづらい文章なのですが、あとで要約します。

①:童話の「残酷さ」を訂正することは「ごまかし」

グリム兄弟はどうも批判されたことを不満に思っているようです。

第2版の序文
(前略)教育の書として役立つようにするのが、われわれのねらいなのである。

そのために、われわれが求めているのは、日常生活の中で起こり、しかも隠しておくことなどできないような、ある種の状況や関係にかかわることをすべて、狭い心で削り取ってしまうことによって得られる純真さではない。

(中略)
われわれが求めているのは、悪いことを消し去って隠すようなことをしない、ごまかしのない話の真実のなかにある純真さなのだ。

わかりづらいですよね。なにか直接的に言わない感じがあるんですよね。

  • 狭い心を削り取ってしまう→ 残酷な箇所を削り取ってしまう
  • 純真さ→ 真実?

ですかね。

たぶん言っていることは

「グリム童話は残酷!」

「子供には読ませられない!」

グリム兄弟
グリム兄弟

「なんだと! じゃあ、ごまかせと言うのか?

という感じなのでしょう。

「残酷」なところを訂正することは、グリム兄弟にとって「ごまかし」に等しいと思っているのでしょうね。

②:クレームに従うグリム兄弟

次のくだりは、ちょっと大人になります。

第2版の序文
とはいえ、この新版では、子どもにふさわしくない表現はすべて注意深く削除した。

それでもなお、二、三の話が親を当惑させる、あるいは不快な気持ちにさせるとか、そのためにこの本を子どもの手に直接渡したくはないというような強硬な意見が出てくるかもしれない。こうした懸念は場合によってはもっともであり、そういう場合は話を選んであたえてくださればよい。

けっこう、態度が変わりましたね。

まず、「子供にふさわしくない表現」は削除したことを示して、批判された箇所に対して「それ相応の対応」を施したことを報告しています。

それでもなお「子どもの手に直接渡したくない」という読者の主張を「強硬な意見」と見なしなしながらも、その意見も「場合によってはもっとも」だと、微妙に理解を示しています。

最後には、それでも童話の内容が不満だと言うなら、親が「話を選んで与えてくださればいい」と対応策までも提案していますね。

かなり、譲歩しています。

③:グリム童話は「自然」だ!

ですが、やっぱり言いたいことがあるようです。

第2版の序文
ただし、全体としては(中略)こうした懸念はまったく無用だ。

「こうした懸念」=子供たちに聞かせて悪影響が出ることですね。

心配などいらないということです。

ここからは、少々わかりにくい例え話がはじまります。

第2版の序文
自然そのものが、われわれの最良の証人だからである。

自然は、花や葉をその色と形で育ててきた。
自然にはないある種の要求から、その色や形が当を得ているとは思えない人がいて、(中略)だからといって色やぎざぎざを別なものにしろなどと、自然に対して要求することはできない。

まあ、わかりにくいですよね。

ひたすら、「自然」に例えています。
「自然に対して要求することはできない」というのは、批判した読者に向けて言っていますよね。

ということは「自然」と言っているところは、たぶんグリム童話のことですね

グリム兄弟は、自分たちの物語を「自然」と思っているのですね。

第2版の序文
別な言い方をすれば、雨や露は地上のあらゆるものにとってためになる。

植物があんまりきゃしゃで傷つきやすいからと、外に出すことを恐れ、部屋のなかで水をやっている人がいても、その人が雨や露に降るなと要求するのは無理というものだろう。
自然なものは何であれ健全なものであり、それこそがわれわれのめざすべきものなのだ。
  • 有害に見えたとしても、それも「自然」です
  • 「自然」にケチを付けたって無理なこと
  • 「自然」は我々の目指すところ

と言っています。

「自然」に全幅の信頼を置いている感じがしますね。

④:「残酷」も「恐怖」も自然の一面

以上が、初版で批判を受けたあとの第2版の序文に書かれてあった反論部分です。
グリム兄弟のリアクションですが、自然の例え話に終始している印象でしたね。

初版への批判に対して、グリム兄弟が言いたかったことをざっくりまとめてみます。

まとめ
読者がこれは「残酷」です!と言って批判してきたものをグリム兄弟はこれは「自然」です!と応えています。

じっさい「自然」から「有害」を取り除くことなどできないのだから、批判すること自体まったく意味のないことだと言っています。

童話から「残酷」な部分を排除したからといって、じっさいの「自然」には「残酷」に至る危険な要素は厳然と残ってますよということでしょう。

「残酷」な部分を排除したら、そのぶん子供たちは「自然」の情報を失うことになりますよというくらいの気持ちだったかもしれませんね。

人間が書いているのに「自然」なの?

ですが、本当に「自然」なのでしょうか?

物語=自然

人間が書いているのに、おかしくないですか?

人為的なものが自然ですか?

民衆から自然発生的に生まれた口承文学とはいえ、人間が創ったものですからね。

ミステリー小説などは、作者は理論的に構造を考えてつくっているので、まったく「自然」ではないですよね。もっといえば、奇をてらって「残酷」にしてみたり、怖がらせることを目的にしたりして創作できてしまいそうです。こうなったらもう「自然」ではないですね。

「自然」かどうかなんて証明できるものではないのでしょうが、グリム兄弟が求めていたものは「自然」なんですよね。

①:「もの」が語る物語

このあたりのことについて、ほかの人がどう見ているのでしょう。梅原猛さんの『もののかたり』という本の中の一節です。

「ものがたり」というのは「もの」が「語る」話なのである。「もの」 が「もの」について「語る」のである。

「もの」とは何であろうか。

既に多くの先人、特に折口信夫が主張したことであるが、「もの」は「もののけ(物の怪)」の「もの」であり、「霊魂」、 さらに言えば「怨霊」或いは「幽霊」の類である。

梅原猛(1995)『もののかたり』淡交社.

物語は人間に書いているものですが、「霊魂」「幽霊」が語っていると言っています。

「もの」即ち霊が「語る」ものが、「ものがたり」であろう。
何について「語る」のか。

語られる対象もやはり「もの」即ち霊なのである。

霊が霊について語る――これが「ものがたり」である。

しかし語るのはやはり人間である。人間以外の動物は語ることは出来ない。

とすれば人間が語る話が、どうして「もの」即ち霊が語る話になるのか。

人間は「もの」即ち霊魂を持っていることは確実である。それゆえ「ものがたり」は人間の中にある「もの」即ち霊魂が語る話である。

人間が書いているのに、どうして「自然」と言っているのか? が疑問でした。それについて梅原さんは答えてくれています。人間は霊魂を持っているらしいです。つまり、人間ではないものが書いている? ということですよね。

②:夢をつくっているのは誰?

昔話研究者のフリードリヒ・フォン・デア・ライエンは、1900年心理学者フロイトの有名な『夢解釈』が出版されたあと、いち早く反応しています。「昔話の起源は夢ではないか」ということを言っています。

昔話と夢の類似性は感覚的にも理解できますよね。

さて、夢は誰がつくっているのでしょうか。

もちろん自分なのですが、自分と言うにはあまりに思い通りになりません。まったく操作不能です。

やはりそれに答えるには、梅原猛さんが言っているように「もの」あるいは「霊魂」などのわけのわからぬものを引き出してくるより仕方がないような気がします。そうしないと説明が付かないですね。どう言っていいかが分からないです。

「もの」や「霊魂」が夢を語っているのです。夢もつくっています。ですから、おそらく「もの」や「霊魂」は私たちの中に生きているのでしょう。人間は「もの」即ち霊魂を持っていることは確実であるということになります。

③:意識の検閲を受けないもの

そして、それは意識の言うことを聞いてくれません。「残酷」だからと止めたとしても、「怖い」と言って避けようとしても、話はどんどん生まれていきます。

作家や芸術家が、作品を書いているのに「書かされる」時があるとか、「神が降りる」時があるとか耳にすることがあります。意識以外のものが動き出すときがあるのでしょう。

結果どうなるかといえば、残酷にもなるし、怖くもなります。なぜなら、人間の意識の検閲をあまり受けないからです。社会的な規範や常識など気にしていませんからね。

グリム兄弟が求めた「純真さ」

グリム兄弟は「純真さ」というのを求めていましたが、それは「個人が見る夢」のようなものではないでしょうか。

夢は見ている本人を怖がらせたり、飛び起こしたりする力を持っています。それは「夢の話」と本人が密接に関わり合っている証拠です。夢の内容を本人は体験的にコミットしています。

その人個人の見た夢ならば「ごまかし」ようがないし、隠すこともないし、「残酷」と批判しようが、もう体験的に見ていますからね。グリム兄弟はこの「個人が見る夢」のようなものを目指していたのではないでしょうか。

読者がグリム童話を読むことと、個人が夢を見ることの違いを表現するのに「純真さ」という言葉はふさわしいように思います。

まとめ:「残酷」も自然のひとつの表情です!

ということで、今回は、なぜ昔話は「残酷」かを探索してきました。

なぜ、昔話は怖いのか? の解答としては、

人間が意識的に語るのではなく、「自然が語っているから」「ものが語る物語だから」という答えになります。すると、意識の検閲を受けないので、結果、生み出されたものは意識が驚くようなものになるといったところです。

今回は以上です。

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